单项选择题

問題10 次の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1、2、3、4から一つ選びなさい。 まず、教育とは何か、ということから考えてみよう。さしあたってぼくは、教育とは、子どもを「社会の成員(大人)としてふさわしい存在」へと育て上げていくこと、と定義してみたい。 どんな時代、どんな社会の人びとでも、子どもを大人に育て上げなくてはならなかった。そのさいには、①社会の成員として「ふさわしい」あり方が何かしら想定されていて、それが教育の営みを導いていたはずだ。 その「ふさわしさ」は、大きく二つに分けられるだろう。一つは、働いて食べていけるために必要な能力、つまり農民なら農民としての、漁民ならば漁民としての、技能や知識。もう一つは、他の人びとのあいだでふさわしいふるまいができること――基本的なルールを守り、他の人びとと協力する態勢をとれること、自分に与えられた役割を果たし、その責任をとれること等々、つまり、他者との関係能力である。 では、現代社会においては、どういうことが「大人としてふさわしい」のだろうか?教育理念を構築するとは、このことをあらためて考え、かつ共有しようとすることに他ならない。 だが、この「共有」ということはなかなかむずかしい。そこには、社会のあり方と人間の生き方をどのようなものとして思い描くか、つまりは、異なった社会観人間観がさまざまに入り込み、衝突してくるからだ。 たとえば、ぼくが最初にあげた「教育とは、子どもを社会の成員としてふさわしい存在にすることだ」という定義に対しても、②反発を覚える人がいるだろう。「それは、社会的期待に子供を添わせようとするよくない発想だ。教育とはむしろ、子供の主体的な判断力を育てるものだ」というわけである。 この意見はしかし、「社会の秩序にただ従うだけでなく、主体的な判断のもとにみずからの人生をつくりあげ、社会のあり方をも批判的に検討する人間こそが社会の成員としてふさわしい」という近代的な人間観にもとづいている。これもまた、社会の側が子どもたちに寄せる「期待」の一種だと言わざるをえない。そして子供を放置すれば主体的批判的な人間になるはずもないから、そのように「育て上げ」ようとしなくてはならない。 いずれにせよ、教育というものは、社会(大人)の側が子供に寄せる期待、もっと強い言い方をすれば、ある種の強制から自由ではない、とぼくは考える。重要なことは、「この社会の一員、つまり大人として生きていくうえで何が必要な条件なのか」ということをきちんと見定め共有したうえでの強制であるかどうか、という点なのだ。                                                           (苅谷剛彦西研『考えあう技術――教育と社会を哲学する」による) ①(社会の成員として「ふさわしい」あり方)とはどのようなものか。

A.子供を養い、社会において責任あるふるまいができること
B.自立するために必要な能力を身につけ、自由に生きていけること
C.いつの時代にも通用する技能や知識を備え、他者に尊敬されること
D.技能や知識を身につけ、他者とのあいだでうまく生きていけること
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单项选择题

問題9 次の(1)~(3)の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1、2、3、4から一つ選びなさい。私は、「どうしたらわかりやすく伝えられるか」ということを常に考えています。 その一方で、「話を単純化しすぎてはいけない」ということも胆に銘じ(注1)ています。 この兼ね合いが、結構難しいのです。扱うテーマに関して勉強を積み重ね、知識が増えるほど、難しくなります。 生半可(注2)にしか知らないときのほうが、簡単にざっくり(注3)単純化できたりします。でも、そのために結果として、全体像が見えずに歪んだ像を示したり、事実とニュアンスが違ってきてしまったりすることにもつながります。これはとても①怖いことです。 それを防ぐには、どうしたらいいか。(中略) まず、調べたいことを勉強して、誰かに話してみます。簡単に話ができたら、要注意。学部生レベルである可能性が高いからです。そこで満足せずに、さらに深い勉強をしてみましょう。すると、あら不思議。急に話が難しくなります。これが大学院生レベルです。いわば②「わかりやすい説明」に至るスランプのようなものです。 そこで挫折せず、さらに勉強を深め、「この話のキモ(注4)は何なのか」を考え抜きましょう。すると、ある日突然、自分でも驚くほど、わかりやすい説明ができていることに気づくはずです。あなたは、その分野で、晴れて「指導教授」の立場まで成長したのです。学部生レベルの人の説明の間違いを訂正してあげることもできるようになったことでしょう。 最初の単純化で満足せず、さらに高みを目指すとスランプに陥る。そこを突破すると、「わかりやすい説明」が可能になる。このプロセスが、キモなのです。 (池上彰『<わかりやすさ>の勉強法』による) (注1) 胆(きも)に銘(めい)じる:決して忘れないようにする (注2) 生半可:中途半端 (注3) ざっくり:大まかに、粗く (注4) キモ:最も大事なところ 50. ①(怖いこと)とは何か

A.不十分な知識で話を単純化したため、内容が正確でなくなること
B.話があいまいになり、情報を断片的にしか伝えられなくなること
C.事実に関する知識が不十分なせいで、話が単純化しづらいこと
D.扱うテーマに関して知識が増えるほど、説明が難しくなること
单项选择题

問題9 次の(1)~(3)の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1、2、3、4から一つ選びなさい。児童文学の多くは、子どもの視点で書かれています。もちろん作者は大人なのですが、子どもの考え方や、子どもの目の高さから見える風景を描いています。当然のことながら大人が読む場合、そこにどうしても①視点のズレが生じます。 けれど大人はみな、昔、子どもでした。子どもを卒業して大人になったと思っているのが、子どもだった自分を抱えたまま大人になったと思っているのかは人それぞれでしょうが、少なくとも、だれもが子ども時代を過ごしてきています。大人の視点で読みながら、子どもの頃の視点を思い出すことは可能です。自分の中の子どもに寄り添って、一緒に読むとでも言えばいいでしょうか。  子ども時代に読んだ本を再読すると、同じ場面なのに、子どもの頃の自分と今の自分とでは、感じ方や受け取り方がちがうのに気づくことがあります。それは今の自分が、自分の心の中にいる子どもと向かいあう一瞬です。そうした機会に、今の子どもたちへのまなざしを新たにすることもあるでしょう。たとえば、「近頃(ちかごろ)の子どもにはこまったものだ」と文句を言っていたけれど、子どもの頃の自分はどうだったのか?と問い直す。大人であることにあぐらをかいていた(注)自分を省みる。そんなことが起こるかもしれません。  ②どうぞ、「子どもの本」を開いてみてください。 (ひこ田中『大人のための児童文学講座』による) (注) あぐらをかいていた:ここでは、何の疑問も感じずにいた 53. ①(視点のズレが生じます)とあるが、なぜそうなるのか。

A.大人は子どもの世界がよく理解できないから
B.大人は子どもの視点に合わせて読もうとするから
C.大人の見てきた風景と子どもの見ている風景はちがうから
D.大人の視点から子どもの視点で書かれたものを読むから
单项选择题

問題10 次の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1、2、3、4から一つ選びなさい。 まず、教育とは何か、ということから考えてみよう。さしあたってぼくは、教育とは、子どもを「社会の成員(大人)としてふさわしい存在」へと育て上げていくこと、と定義してみたい。 どんな時代、どんな社会の人びとでも、子どもを大人に育て上げなくてはならなかった。そのさいには、①社会の成員として「ふさわしい」あり方が何かしら想定されていて、それが教育の営みを導いていたはずだ。 その「ふさわしさ」は、大きく二つに分けられるだろう。一つは、働いて食べていけるために必要な能力、つまり農民なら農民としての、漁民ならば漁民としての、技能や知識。もう一つは、他の人びとのあいだでふさわしいふるまいができること――基本的なルールを守り、他の人びとと協力する態勢をとれること、自分に与えられた役割を果たし、その責任をとれること等々、つまり、他者との関係能力である。 では、現代社会においては、どういうことが「大人としてふさわしい」のだろうか?教育理念を構築するとは、このことをあらためて考え、かつ共有しようとすることに他ならない。 だが、この「共有」ということはなかなかむずかしい。そこには、社会のあり方と人間の生き方をどのようなものとして思い描くか、つまりは、異なった社会観人間観がさまざまに入り込み、衝突してくるからだ。 たとえば、ぼくが最初にあげた「教育とは、子どもを社会の成員としてふさわしい存在にすることだ」という定義に対しても、②反発を覚える人がいるだろう。「それは、社会的期待に子供を添わせようとするよくない発想だ。教育とはむしろ、子供の主体的な判断力を育てるものだ」というわけである。 この意見はしかし、「社会の秩序にただ従うだけでなく、主体的な判断のもとにみずからの人生をつくりあげ、社会のあり方をも批判的に検討する人間こそが社会の成員としてふさわしい」という近代的な人間観にもとづいている。これもまた、社会の側が子どもたちに寄せる「期待」の一種だと言わざるをえない。そして子供を放置すれば主体的批判的な人間になるはずもないから、そのように「育て上げ」ようとしなくてはならない。 いずれにせよ、教育というものは、社会(大人)の側が子供に寄せる期待、もっと強い言い方をすれば、ある種の強制から自由ではない、とぼくは考える。重要なことは、「この社会の一員、つまり大人として生きていくうえで何が必要な条件なのか」ということをきちんと見定め共有したうえでの強制であるかどうか、という点なのだ。                                                           (苅谷剛彦西研『考えあう技術――教育と社会を哲学する」による) ①(社会の成員として「ふさわしい」あり方)とはどのようなものか。

A.子供を養い、社会において責任あるふるまいができること
B.自立するために必要な能力を身につけ、自由に生きていけること
C.いつの時代にも通用する技能や知識を備え、他者に尊敬されること
D.技能や知識を身につけ、他者とのあいだでうまく生きていけること
单项选择题

問題12 次の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1、2、3、4から一つ選びなさい。 皆さんは、今朝起きてからいままでに、どんな広告を見たか覚えていますか。 「広告はほとんどなかったと思うけど……」。いやいや、そんなことはありません。現在の時間が、朝会社に着いたばかりだったとしても、短い時間のうちにものすごい量の広告に触れているはずです。テレビCMで、新聞で、電車の中で、街中で……。何十、何百という数が、目の前を通り過ぎたことでしょう。 そのなかで、ぱっと思い出せるものはありますか。そう言われてみると、ほとんどといっていいくらい、記憶に残っていないのではないでしょうか。(中略) 「広告なんて誰も見ていない」 これは、僕が会社に入って間もない頃に実感したことです。会議で難しい用語が飛び交い、商品のアピールポイントや表現の話は白熱しているのですが、①もっと根本的なことにはなかなか触れられずにいる。目の前の仕事に深く入り込んでしまうと、「果たして、広告とは関心をもってもらえるものなのか」という、ぐっと引いた視線で見ることを忘れがちになってしまうのです。こうした大前提が見えないままに作られている広告が、非常に多いのではないでしょうか。 広告を発信する側としては、伝えたいことはたくさんあって、一般の人たちも当然注目してくれるものと思い込みがちです。ところが、受け手側というのは、発信者側のそんな思いなど、ほとんど意に介し(注1)ていません。なぜなら、日常生活のなかでは、自分の身の回りの出来事や問題で精一杯になっているからです。人は自分の心にバリア(注2)を張っていて、無意識のうちに外部情報を遮断しています。ですから、伝えたい情報を相当きちんと整理したうえで、筋道を立てて戦略的に伝えることを考えないと、受け手の心のバリアを破って入り込むことなどできないのです。 「振り向かせるためには、刺激的なものにすればいいんじゃないの?」 ②こういう意見もあるでしょう。でも、単に刺激的なだけでは、一瞬目を引くだけで終わってしまう。心の奥までは浸透していかないのです。たとえるなら、子どもが隠れていた物陰から出てきて、「わっ!」と驚かせるようなもの。驚かされた方は、怒ったり相手にしなかったりするかもしれません。相手の理解を得たり興味を引いたりしないと、本当に心を捉えたことにはならないのです。だから、まず何が言いたいのかという主旨をはっきりさせ、そのうえでどんなトーンで伝えるのかという工夫をすることが大切です。              (佐藤可士和『加藤可士和の超整理術』による) (注1)意に介する:気にする (注2)バリア:ここでは、壁 ①(もっと根本的なこと)とあるが、どのようなことか。

A.広告とは一体何なのかということ
B.広告とは必要なものなのかということ
C.広告の用語や表現が適切なのかということ
D.広告とは人に注目されるものなのかということ
单项选择题

問題12 次の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1、2、3、4から一つ選びなさい。 皆さんは、今朝起きてからいままでに、どんな広告を見たか覚えていますか。 「広告はほとんどなかったと思うけど……」。いやいや、そんなことはありません。現在の時間が、朝会社に着いたばかりだったとしても、短い時間のうちにものすごい量の広告に触れているはずです。テレビCMで、新聞で、電車の中で、街中で……。何十、何百という数が、目の前を通り過ぎたことでしょう。 そのなかで、ぱっと思い出せるものはありますか。そう言われてみると、ほとんどといっていいくらい、記憶に残っていないのではないでしょうか。(中略) 「広告なんて誰も見ていない」 これは、僕が会社に入って間もない頃に実感したことです。会議で難しい用語が飛び交い、商品のアピールポイントや表現の話は白熱しているのですが、①もっと根本的なことにはなかなか触れられずにいる。目の前の仕事に深く入り込んでしまうと、「果たして、広告とは関心をもってもらえるものなのか」という、ぐっと引いた視線で見ることを忘れがちになってしまうのです。こうした大前提が見えないままに作られている広告が、非常に多いのではないでしょうか。 広告を発信する側としては、伝えたいことはたくさんあって、一般の人たちも当然注目してくれるものと思い込みがちです。ところが、受け手側というのは、発信者側のそんな思いなど、ほとんど意に介し(注1)ていません。なぜなら、日常生活のなかでは、自分の身の回りの出来事や問題で精一杯になっているからです。人は自分の心にバリア(注2)を張っていて、無意識のうちに外部情報を遮断しています。ですから、伝えたい情報を相当きちんと整理したうえで、筋道を立てて戦略的に伝えることを考えないと、受け手の心のバリアを破って入り込むことなどできないのです。 「振り向かせるためには、刺激的なものにすればいいんじゃないの?」 ②こういう意見もあるでしょう。でも、単に刺激的なだけでは、一瞬目を引くだけで終わってしまう。心の奥までは浸透していかないのです。たとえるなら、子どもが隠れていた物陰から出てきて、「わっ!」と驚かせるようなもの。驚かされた方は、怒ったり相手にしなかったりするかもしれません。相手の理解を得たり興味を引いたりしないと、本当に心を捉えたことにはならないのです。だから、まず何が言いたいのかという主旨をはっきりさせ、そのうえでどんなトーンで伝えるのかという工夫をすることが大切です。              (佐藤可士和『加藤可士和の超整理術』による) (注1)意に介する:気にする (注2)バリア:ここでは、壁 筆者は、広告の受け手をどのようにとらえているか。

A.自分のことで忙しくて、余計な情報を取り入れようとしない
B.毎日の生活が忙しく、たくさんのことを覚えようとしない。
C.目にする広告が多すぎて、必要なものが選べなくなっている。
D.関心のもてない広告が多く、広告を見る必要性を感じていない。
单项选择题

問題10 次の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1、2、3、4から一つ選びなさい。 まず、教育とは何か、ということから考えてみよう。さしあたってぼくは、教育とは、子どもを「社会の成員(大人)としてふさわしい存在」へと育て上げていくこと、と定義してみたい。 どんな時代、どんな社会の人びとでも、子どもを大人に育て上げなくてはならなかった。そのさいには、①社会の成員として「ふさわしい」あり方が何かしら想定されていて、それが教育の営みを導いていたはずだ。 その「ふさわしさ」は、大きく二つに分けられるだろう。一つは、働いて食べていけるために必要な能力、つまり農民なら農民としての、漁民ならば漁民としての、技能や知識。もう一つは、他の人びとのあいだでふさわしいふるまいができること――基本的なルールを守り、他の人びとと協力する態勢をとれること、自分に与えられた役割を果たし、その責任をとれること等々、つまり、他者との関係能力である。 では、現代社会においては、どういうことが「大人としてふさわしい」のだろうか?教育理念を構築するとは、このことをあらためて考え、かつ共有しようとすることに他ならない。 だが、この「共有」ということはなかなかむずかしい。そこには、社会のあり方と人間の生き方をどのようなものとして思い描くか、つまりは、異なった社会観人間観がさまざまに入り込み、衝突してくるからだ。 たとえば、ぼくが最初にあげた「教育とは、子どもを社会の成員としてふさわしい存在にすることだ」という定義に対しても、②反発を覚える人がいるだろう。「それは、社会的期待に子供を添わせようとするよくない発想だ。教育とはむしろ、子供の主体的な判断力を育てるものだ」というわけである。 この意見はしかし、「社会の秩序にただ従うだけでなく、主体的な判断のもとにみずからの人生をつくりあげ、社会のあり方をも批判的に検討する人間こそが社会の成員としてふさわしい」という近代的な人間観にもとづいている。これもまた、社会の側が子どもたちに寄せる「期待」の一種だと言わざるをえない。そして子供を放置すれば主体的批判的な人間になるはずもないから、そのように「育て上げ」ようとしなくてはならない。 いずれにせよ、教育というものは、社会(大人)の側が子供に寄せる期待、もっと強い言い方をすれば、ある種の強制から自由ではない、とぼくは考える。重要なことは、「この社会の一員、つまり大人として生きていくうえで何が必要な条件なのか」ということをきちんと見定め共有したうえでの強制であるかどうか、という点なのだ。                                                           (苅谷剛彦西研『考えあう技術――教育と社会を哲学する」による) 教育理念を「共有」することがむずかしいのはなぜか。

A.社会や人間について色々な考え方がありぶつかり合うから
B.教育者と一般社会の人びとが思い描く大人らしさは違うから
C.子どもの主体性について一致した見解が得られないから
D.社会のあり方や人びとの価値観が変化してきているから
单项选择题

問題12 次の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1、2、3、4から一つ選びなさい。 皆さんは、今朝起きてからいままでに、どんな広告を見たか覚えていますか。 「広告はほとんどなかったと思うけど……」。いやいや、そんなことはありません。現在の時間が、朝会社に着いたばかりだったとしても、短い時間のうちにものすごい量の広告に触れているはずです。テレビCMで、新聞で、電車の中で、街中で……。何十、何百という数が、目の前を通り過ぎたことでしょう。 そのなかで、ぱっと思い出せるものはありますか。そう言われてみると、ほとんどといっていいくらい、記憶に残っていないのではないでしょうか。(中略) 「広告なんて誰も見ていない」 これは、僕が会社に入って間もない頃に実感したことです。会議で難しい用語が飛び交い、商品のアピールポイントや表現の話は白熱しているのですが、①もっと根本的なことにはなかなか触れられずにいる。目の前の仕事に深く入り込んでしまうと、「果たして、広告とは関心をもってもらえるものなのか」という、ぐっと引いた視線で見ることを忘れがちになってしまうのです。こうした大前提が見えないままに作られている広告が、非常に多いのではないでしょうか。 広告を発信する側としては、伝えたいことはたくさんあって、一般の人たちも当然注目してくれるものと思い込みがちです。ところが、受け手側というのは、発信者側のそんな思いなど、ほとんど意に介し(注1)ていません。なぜなら、日常生活のなかでは、自分の身の回りの出来事や問題で精一杯になっているからです。人は自分の心にバリア(注2)を張っていて、無意識のうちに外部情報を遮断しています。ですから、伝えたい情報を相当きちんと整理したうえで、筋道を立てて戦略的に伝えることを考えないと、受け手の心のバリアを破って入り込むことなどできないのです。 「振り向かせるためには、刺激的なものにすればいいんじゃないの?」 ②こういう意見もあるでしょう。でも、単に刺激的なだけでは、一瞬目を引くだけで終わってしまう。心の奥までは浸透していかないのです。たとえるなら、子どもが隠れていた物陰から出てきて、「わっ!」と驚かせるようなもの。驚かされた方は、怒ったり相手にしなかったりするかもしれません。相手の理解を得たり興味を引いたりしないと、本当に心を捉えたことにはならないのです。だから、まず何が言いたいのかという主旨をはっきりさせ、そのうえでどんなトーンで伝えるのかという工夫をすることが大切です。              (佐藤可士和『加藤可士和の超整理術』による) (注1)意に介する:気にする (注2)バリア:ここでは、壁 筆者は②(こういう意見)に対してどのように考えているか

A.刺激的な広告は、受け手の心の奥に入り込んでいきやすい。
B.刺激的な広告は、より刺激的にしていかないと受け手に伝わらない。
C.単に刺激的なだけの広告も、受け手を振り向かせるためには必要だ。
D.ただ刺激的な広告は、驚かせるだけで受け手の心には残らない
单项选择题

問題10 次の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1、2、3、4から一つ選びなさい。 まず、教育とは何か、ということから考えてみよう。さしあたってぼくは、教育とは、子どもを「社会の成員(大人)としてふさわしい存在」へと育て上げていくこと、と定義してみたい。 どんな時代、どんな社会の人びとでも、子どもを大人に育て上げなくてはならなかった。そのさいには、①社会の成員として「ふさわしい」あり方が何かしら想定されていて、それが教育の営みを導いていたはずだ。 その「ふさわしさ」は、大きく二つに分けられるだろう。一つは、働いて食べていけるために必要な能力、つまり農民なら農民としての、漁民ならば漁民としての、技能や知識。もう一つは、他の人びとのあいだでふさわしいふるまいができること――基本的なルールを守り、他の人びとと協力する態勢をとれること、自分に与えられた役割を果たし、その責任をとれること等々、つまり、他者との関係能力である。 では、現代社会においては、どういうことが「大人としてふさわしい」のだろうか?教育理念を構築するとは、このことをあらためて考え、かつ共有しようとすることに他ならない。 だが、この「共有」ということはなかなかむずかしい。そこには、社会のあり方と人間の生き方をどのようなものとして思い描くか、つまりは、異なった社会観人間観がさまざまに入り込み、衝突してくるからだ。 たとえば、ぼくが最初にあげた「教育とは、子どもを社会の成員としてふさわしい存在にすることだ」という定義に対しても、②反発を覚える人がいるだろう。「それは、社会的期待に子供を添わせようとするよくない発想だ。教育とはむしろ、子供の主体的な判断力を育てるものだ」というわけである。 この意見はしかし、「社会の秩序にただ従うだけでなく、主体的な判断のもとにみずからの人生をつくりあげ、社会のあり方をも批判的に検討する人間こそが社会の成員としてふさわしい」という近代的な人間観にもとづいている。これもまた、社会の側が子どもたちに寄せる「期待」の一種だと言わざるをえない。そして子供を放置すれば主体的批判的な人間になるはずもないから、そのように「育て上げ」ようとしなくてはならない。 いずれにせよ、教育というものは、社会(大人)の側が子供に寄せる期待、もっと強い言い方をすれば、ある種の強制から自由ではない、とぼくは考える。重要なことは、「この社会の一員、つまり大人として生きていくうえで何が必要な条件なのか」ということをきちんと見定め共有したうえでの強制であるかどうか、という点なのだ。                                                           (苅谷剛彦西研『考えあう技術――教育と社会を哲学する」による) (反発を覚える人)の意見について、筆者はどのように考えているか

A.大人の期待を実現しようとするという点では筆者の考えと同じだ。
B.大人の期待を押し付けようとすることは教育理念にそぐわないものだ。
C.子どもの主体的な判断力がみずから育つと考えることは思い込みでしかない。
D.子どもの主体的な判断力を育てようとする点では筆者の考えと変わらない。
单项选择题

問題12 次の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1、2、3、4から一つ選びなさい。 皆さんは、今朝起きてからいままでに、どんな広告を見たか覚えていますか。 「広告はほとんどなかったと思うけど……」。いやいや、そんなことはありません。現在の時間が、朝会社に着いたばかりだったとしても、短い時間のうちにものすごい量の広告に触れているはずです。テレビCMで、新聞で、電車の中で、街中で……。何十、何百という数が、目の前を通り過ぎたことでしょう。 そのなかで、ぱっと思い出せるものはありますか。そう言われてみると、ほとんどといっていいくらい、記憶に残っていないのではないでしょうか。(中略) 「広告なんて誰も見ていない」 これは、僕が会社に入って間もない頃に実感したことです。会議で難しい用語が飛び交い、商品のアピールポイントや表現の話は白熱しているのですが、①もっと根本的なことにはなかなか触れられずにいる。目の前の仕事に深く入り込んでしまうと、「果たして、広告とは関心をもってもらえるものなのか」という、ぐっと引いた視線で見ることを忘れがちになってしまうのです。こうした大前提が見えないままに作られている広告が、非常に多いのではないでしょうか。 広告を発信する側としては、伝えたいことはたくさんあって、一般の人たちも当然注目してくれるものと思い込みがちです。ところが、受け手側というのは、発信者側のそんな思いなど、ほとんど意に介し(注1)ていません。なぜなら、日常生活のなかでは、自分の身の回りの出来事や問題で精一杯になっているからです。人は自分の心にバリア(注2)を張っていて、無意識のうちに外部情報を遮断しています。ですから、伝えたい情報を相当きちんと整理したうえで、筋道を立てて戦略的に伝えることを考えないと、受け手の心のバリアを破って入り込むことなどできないのです。 「振り向かせるためには、刺激的なものにすればいいんじゃないの?」 ②こういう意見もあるでしょう。でも、単に刺激的なだけでは、一瞬目を引くだけで終わってしまう。心の奥までは浸透していかないのです。たとえるなら、子どもが隠れていた物陰から出てきて、「わっ!」と驚かせるようなもの。驚かされた方は、怒ったり相手にしなかったりするかもしれません。相手の理解を得たり興味を引いたりしないと、本当に心を捉えたことにはならないのです。だから、まず何が言いたいのかという主旨をはっきりさせ、そのうえでどんなトーンで伝えるのかという工夫をすることが大切です。              (佐藤可士和『加藤可士和の超整理術』による) (注1)意に介する:気にする (注2)バリア:ここでは、壁 広告の発信者に対して、筆者が言いたいことは何か。

A.受け手の視点に立って商品をアピールすることが重要だ。
B.受け手の心をつかむような情報を発信し続けることが重要だ。
C.受け手に商品の魅力をいかにストレートに伝えるかが重要だ。
D.受け手に伝えたい情報をいかに整理して発信するかが重要だ。
单项选择题

問題9 次の(1)~(3)の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1、2、3、4から一つ選びなさい。ファーストフードが世界中にひろがったのは、文化や人間の集合状態に変化が起こっていたからである。家族はこれまでほど安定したものではなくなったし、私的な生活、労働や遊びのパターンも個人的かつ多様になっていたのである。人間の接触が煩わしいものに感じる傾向も増大した。食事がもつ楽しみは感覚と社交の至上の快楽ではなくなった。それは他の行為のあいまに挿入されるものとなることが多かったし、それと平行して人間は食事を簡便に済ませることを望んだことも考慮すべきであろう。 (中略)  もちろん都市の食文化にとってファーストフードが占める位置は、コンビニが買い物行動にたいして占める位置と同様、全面的ではない。しかし多種多様なレストランがいたるところに叢生(そうせい)(注1)してくるなかに、ひとつの均質化する力として割り込み、かつローカルな都市を世界的な規模にまでひろがった同一の網目に組み込むことは、無視できない力の兆候的現象なのである。  おそらくこうしたファーストフードの経験は、意識されていることがら以上に、ほとんど意識されない感覚的な影響の方が大きいだろう。かつての食の内容からみると、貧困としかいいようのないメニューに慣れること、あえて社会的関係を破壊しようとしないでも、人びとはファーストフードの利用によって、いつのまにか都市の遊民(注2)になっていくこと、そしてこの食形式の共有によってわれわれは奇妙なかたちで、われわれ自身をいつのまにか世界化していること、などである。 (多木浩二『都市の政治学』による) (注1)叢生(そうせい)する:ここでは、多くできる (注2)遊民:ここでは、社会的関係をもたない人 56. 筆者によると、ファーストフードがひろまった理由は何か

A.人びとが人間関係や食べることに無関心になったこと
B.新しい食のスタイルが人びとの好みに合ったこと
C.人とのつながりや生活スタイルが変化したこと
D.食にたいする人びとの嗜好こうが似てきたこと
单项选择题

問題10 次の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1、2、3、4から一つ選びなさい。 まず、教育とは何か、ということから考えてみよう。さしあたってぼくは、教育とは、子どもを「社会の成員(大人)としてふさわしい存在」へと育て上げていくこと、と定義してみたい。 どんな時代、どんな社会の人びとでも、子どもを大人に育て上げなくてはならなかった。そのさいには、①社会の成員として「ふさわしい」あり方が何かしら想定されていて、それが教育の営みを導いていたはずだ。 その「ふさわしさ」は、大きく二つに分けられるだろう。一つは、働いて食べていけるために必要な能力、つまり農民なら農民としての、漁民ならば漁民としての、技能や知識。もう一つは、他の人びとのあいだでふさわしいふるまいができること――基本的なルールを守り、他の人びとと協力する態勢をとれること、自分に与えられた役割を果たし、その責任をとれること等々、つまり、他者との関係能力である。 では、現代社会においては、どういうことが「大人としてふさわしい」のだろうか?教育理念を構築するとは、このことをあらためて考え、かつ共有しようとすることに他ならない。 だが、この「共有」ということはなかなかむずかしい。そこには、社会のあり方と人間の生き方をどのようなものとして思い描くか、つまりは、異なった社会観人間観がさまざまに入り込み、衝突してくるからだ。 たとえば、ぼくが最初にあげた「教育とは、子どもを社会の成員としてふさわしい存在にすることだ」という定義に対しても、②反発を覚える人がいるだろう。「それは、社会的期待に子供を添わせようとするよくない発想だ。教育とはむしろ、子供の主体的な判断力を育てるものだ」というわけである。 この意見はしかし、「社会の秩序にただ従うだけでなく、主体的な判断のもとにみずからの人生をつくりあげ、社会のあり方をも批判的に検討する人間こそが社会の成員としてふさわしい」という近代的な人間観にもとづいている。これもまた、社会の側が子どもたちに寄せる「期待」の一種だと言わざるをえない。そして子供を放置すれば主体的批判的な人間になるはずもないから、そのように「育て上げ」ようとしなくてはならない。 いずれにせよ、教育というものは、社会(大人)の側が子供に寄せる期待、もっと強い言い方をすれば、ある種の強制から自由ではない、とぼくは考える。重要なことは、「この社会の一員、つまり大人として生きていくうえで何が必要な条件なのか」ということをきちんと見定め共有したうえでの強制であるかどうか、という点なのだ。                                                           (苅谷剛彦西研『考えあう技術――教育と社会を哲学する」による) 教育について、筆者の考えを表しているのはどれか

A.教育は社会の秩序に縛られない主体的な判断力を養うものだ。
B.教育は社会のあり方を批判的に検討できる能力を育てるものだ。
C.教育は強制から逃れられず、その強制は教育理念の共有が前提となる。
D.教育は強制から自由ではなく、社会の有力な教育観を受け入れざるをえない。
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